商品名:横山大観『夜桜(左隻)』 商品コード:T-P-2012-A-15100 
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煌びやかさと静寂さが調和した大観円熟期の代表作
 
煌びやかさと静寂さが調和
横山大観『夜桜(左隻)』
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販売価格180,000円(税別)

 198,000円(税込)
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煌びやかさと静寂さが調和した大観円熟期の代表作

横山大観 略年譜
明治元年 茨城県水戸市に水戸藩士酒井捨彦、寿恵の長男として誕生。本名秀麿。
明治22年 東京美術学校に第一期生として入学。校長岡倉覚三(天心)の薫陶を受け、狩野派の橋本雅邦らによる技術指導を仰ぎ、古典技法の基礎を学ぶ。
明治26年 東京美術学校絵画科を卒業。
明治29年 東京美術学校図案科助教授となる。
明治30年 日本絵画協会第2回共進会に《無我》を出品。銅牌となる。
明治31年 東京美術学校騒動。校長岡倉天心らと共に同校を連袂辞職。岡倉天心を中心とした日本美術院創立に参画。以後天心指導の下、菱田春草、下村観山らと日本画における新たな表現技法の開発に邁進する。
明治33年 第8回日本絵画協会・第3回日本美術院連合絵画共進会が開催され《長城》(銀牌)ほかの作品を出品。大観、春草、観山らが古典技法を基に開発した色没骨は、「朦朧体」と呼ばれ非難される。
明治35年 8月越中立山に登り、山頂から眺めた富士の姿に感動する。
明治37年 天心、春草らと渡米し、各地で展覧会を開催。翌年は、アメリカからヨーロッパへ渡り、各地を巡り帰国。
明治39年 日本美術院の五浦移転に伴い五浦に移住する。
明治40年 第一回文展、審査委員に就任。
明治43年 寺崎広業、南画家の山岡米華と中国を旅行。第4回文展にその成果となる《楚水の巻》を出品。この頃から南画風表現や中国を題材とした作品が次々と生まれる。
大正元年 第6回文展に《蕭湘八景》を出品。
大正2年 岡倉天心が死去。下村観山らと日本美術院再興を計画。かつて越中立山山頂から見た富士を題材に《雲中富士》制作。
大正3年 天心一周忌に日本美術院を再興。経営者・同人となる。再興第一回院展(日本橋三越)に中国古典に取材した《游刃有余地》を出品。
大正6年 再興第4回院展に琳派的表現を取り入れた《秋色》と南画的水墨表現による、《雲去来》他を出品。
大正12年 再興第10回院展に大観の評価を決定づけた一つの頂点となる《生々流転》転を出品。
昭和4年 「夜桜」を制作。
昭和5年 イタリア政府主催ローマ日本美術展開催。美術使節としてイタリアを訪問。《夜桜》他を出品。
昭和6年 帝国技芸員となる。
昭和10年 帝国美術院会員となる。
昭和12年 第一回文化勲章を受章。帝国美術院制度廃止され、新たに帝国芸術院会員となる。
昭和15年 画業五十年記念紀元二千六百年奉祝作品展を開催し連作《海に因む十題》、《山に因む十題》を発表。
昭和27年 再興第37回院展に《或る日の太平洋》を出品。既に洗練された型を完成させていた巨匠が、敢えてそれを打ち破り、新たな表現に挑戦した意欲作として注目される。
昭和33年 89歳逝去。正三位勲一等旭日大紋章を追贈される。
昭和51年 上野池之端の大観邸に横山大観記念館設立。
平成29年 大観邸が国の史跡・名勝に指定される。
平成30年 「生誕150年横山大観展」が東京国立近代美術館及び京都国立近代美術館で開催される。

●技法/彩美版(R)シルクスクリーン手刷り/一部本金泥使用●画寸法:天地34×左右72.5cm●額寸法:天地47.3×左右85.7cm●用紙:版画用紙●額縁:特注木製額金泥仕上げ、アクリル付(国産)●重量/約2.6kg●原画所蔵/公益財団法人大倉文化財団 大倉集古館●監修/公益財団法人大倉文化財団 大倉集古館/横山 隆(公益財団法人横山大観記念館 代表理事兼館長)●解説/佐藤志乃(公益財団法人横山大観記念館 主任学芸員)

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