商品名:『朝涼』 鏑木清方 商品コード:T-P-2012-A-16901 
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厳しい夏の暑さを避けるため、娘と出かけた神奈川県横浜市金沢の情景です。
 
娘と出かけた金沢の情景
『朝涼』 鏑木清方
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販売価格180,000円(税別)

 198,000円(税込)
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厳しい夏の暑さを避けるため、まだ月が姿を見せている早朝に、娘と出かけた神奈川県横浜市金沢の情景です。
当時の横浜金沢は、複雑な入江が繰り広がる景勝地で八景とも呼ばれ、長谷川雪旦の『江戸名所図会』でも紹介されていました。
鏑木清方は、少年時代から自宅にあった『江戸名所図会』の金沢八景の絵に親しみを覚え、訪れることを夢見ていました。大正七年に金沢の旅館に逗留して以来、君ケ崎の展望や入江の潮の満ちる様子、酒井抱一も浴したという野島から乙舳にかけての砂浜などが、清方を魅了してやみませんでした。まだ鉄道はなく、東京人の別荘地帯と化していなかったことも、心惹かれた理由の一つでした。そこには蓮田や、江戸期より干拓が進んだ稲田が広がっていました。
大正九年、清方は、東京の喧騒を離れるため、現在の横浜市金沢区谷津町の地所を譲り受けました。その別荘は母屋と四阿からなり、四阿を「游心庵」と名づけました。そこでの逗留の様子は絵日記からも伝わります。夏の游心庵には蜻蛉があふれ、娘たちは「トンボの間」と呼んでいました。
この頃の清方は、自分の制作の進べき道に迷っていたため、スランプに陥っていると言う人もいましたが、清方はこの作品を描くことによって画家として自分がとるべき道を確信したといいます。当時の新聞では、清らかな作品の様子が肖像写真とともに紹介されていました。
作品からは、少女の髪型やしぐさからあどけなさが伝わり、緑と紫を基調とした色合いと相まって清楚な感じが表現されています。残月を背景に、朝露が滴るみずみずしさが漂います。清方は、作品を描くにあたって美しさを求めただけでなく、当時の風俗を後世に伝えようという意図も持っていました。風俗や女性の髪型、帯や着物の模様など、細部にまでこだわって描いています。

■ 鏑木清方 略年譜
明治11年:東京神田に生まれる、父は文人の條野採菊(じょうのさいぎく)。
明治24年:挿絵画家を目指し、水野年方に入門。
明治26年:師の年方から「清方」の雅号を授けられる。
明治34年:日本画家の山中古洞らと烏合会を結成。
大正:5年平福百穂、松岡映丘、結城素明、吉川霊華と共に金鈴社を結成。
大正:8年第1回帝展の審査員をつとめる。
大正12年:関東大震災の時、本郷龍岡町で被災。
大正14年:本作《朝涼》制作。第6回帝展に出品。
昭和2年:第8回帝展に出品の《築地明石町》が帝国美術院賞を受賞。
昭和5年:第11回帝展に《三遊亭圓朝像》(平成15年、重文指定)を出品。
昭和12年:帝国芸術院会員となる。
昭和19年:帝室技芸員に任命される。
昭和21年:第1回日展の審査員をつとめる。疎開先の御殿場から鎌倉市材木座に転居。
昭和29年:文化勲章受章。鎌倉市雪ノ下に転居。
昭和47年:3月2日に逝去。享年93。
平成10年:終焉の地、鎌倉市雪ノ下に鎌倉市鏑木清方記念美術館開館。

●技法/彩美版(R)、シルクスクリーン手刷り●限定100部●用紙/特製絹本●画面寸法(約)/100×38.5cm●表装寸法(約)/169×57cm●表装/三段表装●表装材料/天地:白茶無地、中廻:薄茶綿ムラ経、一文字・風帯:牙地唐花唐草文金襴、軸先:朱塗頭切、箱:柾目桐箱、タトウ入り●原画所蔵/鎌倉市鏑木清方記念美術館●解説/宮崎徹(鎌倉市鏑木清方記念美術館)

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